昭和五十六年八月十二日 朝の御理解
御理解第九十八節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え」
昨日は久富組の前社長でありました、霊の三十年の式年に伴わせて、久富家親族家族の霊、慰霊祭同時に久富組何十年の間に、今日の繁昌を頂かれたんですけれども、その間にはさまざまな難儀ばはらわれてきた。中にも、亡くなられたという霊が五つ柱ございました。だからそういう御霊達もの、慰霊祭をも伴わせて奉仕させて頂いたわけでございますが、お祭りが終って御直会、そして社長の挨拶。その社長の挨拶の中に、私は善い事もしてまいりましたけれども、悪い事が多いでしょうという挨拶の中に言葉があったんです。これはまあ、謙虚なつもりで言うておられるのかもしれませんけども、本当は実際本心かもしれません。ね。善い事もしてまいりましたけれども、悪い事の方が多いでしょう。もう本当に昨日の御霊祭は有難いというよりも、まあ私は申しました事でしたけども、有意義なお祭り、本当にこういう事を思いつかれたという事が思いつかれて、合同慰霊祭が出けたという事は有難いですねというて、まあ申しました事でしたけれども、その社長が、善い事もしてきたけれども、悪い事の方が多いでしょうと言う時に、御神願にね、あのう柿を串に差した串柿というのがありますね。今は、あんなのはないですね。串柿、串の柿といいますが。そして風浪と頂いたんです。風浪というのは風浪(かぜなみ)という事。私はそん時に、ははあと本当に思いました。ね、どっか大川。あちらの方に風浪神社というのが在るでしょう。風浪神社ちいうのがね。あそこんのお祭りには必ず、この風浪柿。あの柿を、だから風浪柿というわけ。柿の串にこうさしたやつです。それを風浪柿としてあす、このまあ名産のようにして売ってるでしょうたしか。私はそういうふうに聞いております。その串の柿を頂いて風浪、風浪(かざなみ)と頂いた。ははあ久富組、ああいう大きな土木の請負いをなさっておられますから、そらあ勿論、さまざまな問題もいっぱいありましようけれどもその風浪という事。ね。風波、そいういものが絶えないということでしょうか、そりゃああちらのなら、奥さんがこうして毎日日参されます。もうそれこそ、もう本当に一心に。あのう子供達がいくらもおられますけれども、子供達の願われる願い、道とかいろいろな御教えに基づいてとかというのもありますけれども、もうとにかく母親のこの一心を貫きなさい。そして子供達の上の事を願いなさいというふうに私はいつも、そういう位に信心をなさいます。所が、そのまあ主人やら周囲の者は信心を致しません。勿論奥さんの思いつきだったでしょうけれども、そういう合同慰霊祭があって、昨日社長の挨拶を聞いておる時に私が頂いたのはです、風浪という事。まあ例えてなら、その弟である久富正義先生が場合ならでも、やっぱり同じ仕事をしております。勿論そりこそ、日勝り月勝りに繁昌のおかげを頂いとります。もうあちらへまいりますと、ははあこれが合楽の信心のおかげの手本だなあと思うようにね、それこそ貧争病のない真善美に輝かんばかりの、言うならおかげを頂いてます。ね。やっぱり同じ仕事をしとるけれども、久富建設の上には風浪がない。犠牲者が、たとえば出たといったような事がない。ここにねはっきり私は、信心のある者と無い者御兄弟ですからよい似てあります。性格も大変いい方です。お兄さんも、正義先生は皆さんが御承知のとおりです。ね。けども信心のある者と無い者は、親のある者と無い子程の違いというものをね、昨日程私は感じた事はありませんでした。これを境にどうでも久富組一家、そしてこりゃ毎年の久富組の行事になさいませよと、私は申しました事でした。そして久富組のかかわりあいの者が全部でね、合同慰霊祭をさしてもらう。 私は実は昨日、そういう御霊達、その勿論御両親の御霊を中心にしてですけれども、五人の犠牲になられた霊達の事のついて、朝からいろいろ頂いて来たんですけれども、それを皆さんにお話ししてよいのか、とてもしのくい御教えでした。だからどんなに、どういうふうに皆さんにお話しし、後から御理解の時に申したらいいだろうかと思うておりましたら、丁度お祭りが始まります三・四分前に、あのう思いがけなくいつも月、これで二度目の今度お参りでしたけれども、近見市長が参拝してみえました。応接席で昨日は一人でしたけれども、えらいにこやかで、いつも何か深刻な顔してみえるけど、昨日は何かとえらいにこやかな顔で、今日は何か嬉しいこつがあったっじゃんありません先生と。そりが今日はあなた久留米の戦災の時にが、久留米に爆弾でやられた時の五百三十名かね、霊の合同慰霊祭がありましたち。それで私は今日のその合同慰霊祭にです、形式的にはこんなに見事にやっとるけども、果たしてその五百数十名の御霊がどう受けておるだろうかと、私が市長として心がけてあったらばよかろうかと思う時にね、あんなにまあ、こりゃあ市長の言葉を借りますと、そりこそ五百数十名の御霊が国を呪い敵を憎んで亡くなった事であろう。その御霊達が助かるとか喜んでもらえるという事は、けれどもおかげで今日久留米の大発展がございます。しかも最近の久留米は国際的な意味でも発展しとる、その事の今度アメリカ行きをなさいます。全国で四名選ばれてその英語で、そのあちらで演説をしなけりゃあならん、それがどうも不安でたまらん。だから先生のお知恵を頂いてね、それこそ合楽理念に基づいていき、あ、ええじゃないですかと、そうですけれども、やっぱ一言頂きたいと言うてまあ言われるんです。ね。そしてその御霊達に私はまあ御焼香なさりながらでしょう、思いました事はね、あっ、でしたけれども、今日の久留米はこういう繁昌一途をたどっておりという事を申し上げましたら、何か心がねこう深き深きするように嬉しゅうなった。それで今日はの、御礼参拝だったと言われるんです。ね。丁度昨日、応接間にハワイから送って来たというあのう、ハワイのあれは何ですか、赤い何とかという(ハイビスカス)花がありましょう。ハワイだけにしかない花です。あれを沢山送ってきとりましたから、それを洋間にいれてありました。だから先生はこれですよちね、それこそあのう、例えばアメリカに行ってならあちらで英語で、そのまあ演説をなさる。御心配はいりませんよとね、言わば海を越えたアメリカの花が、ここに来とるじゃないですか。この花をアメリカで咲かせなさい。そして実は、帰って久留米の上でちぎらせてもらおようなおかげを頂きなさい。私はそういうふうにお願いしますと言うたら、もう本当にもう何ですかね、教えによって助かるというのはそういう事でしょう。これで安心して行けますと言うてまあそういう事での、昨日はお参りでございましたけれども、私はね、その久富組の人達に今日の御霊のお祭りをどう伝えようかと思っておる所へそれでした。神ながらの事ですよね。だから私は今日、久留米市長が三、四十分前にここに参ってみえて、こうこうだったと今日久留米の合同慰霊祭に、確かに言うならば犠牲になった人達が、決して喜んで死んで行ったち言う事は絶対ないです。
私は丁度、繁雄さんがおられましたから、あのうまあだ足もんでもらいよりましたから、テレビをこうつけさせて頂いたら、ずうっと出るのが幽霊の寫真ばかりです。そげな話をどんなふうにしようかとね、所が丁度神様が近市長を使うて、近見市長の心の状態ね。ならまあ久富組の社長がですね、本当にあの時、目の前が真っ暗になるような事件が次々とおこったけれどもおかげでね、久富組はいよいよ繁昌の一途をたどっております。又遺族の上にも、それぞれのおかげを頂いておるという事を、私は御霊に伝えるお祭りでなからなきゃあならんという意味の事をお話しした事でございます。ね。 今日はこの御理解にちょっとそれましたけれども、いわゆる久富組の社長が申しております、私は善い事もして来た。ね、けれども悪い事の方が多いでしょうという、いつも自分の心ん中にかうておる。こんな事しちゃあいかんいかんと思うような事が心ん中にあるのに、それが今日の御理解。ね、心は信心の定期じゃによってとこう言う。自分の良心の苛責がです、そこになら、風浪がおこってくるような現実な働きがおこってくるんですよ皆さん。だから信心して有難いなあ有難いなあで行けばです、有難い事がおこってくる事が分かるでしょう。ね。所が信心を頂いておりましてもです、最近合楽理念を言われるようにね、全ての事に御の字をつけてという頂き方ん中には、今までこんな事とか善い事ではないと思っておった事にまでお礼が言えれるような、言うなら仕組みというかね、そういう一つの法則をかえって、あらたに有難い方へ変えていく法則が合楽では説かれておるんです。だから久富組の社長がですね、とにかくあの一切の事に御の字をつけて頂くという事。ね、全ての物にお世話になる。私は今朝洗面する時に、この歯をいつも取ってやすみますから、歯を入れて必ず私はその歯を入れる時に、今日も又お世話になりますと言うて入れるんです。これは今の三代金光様が、全ての物にお世話になるという事をいつも言われますね。私はこの入れ歯を入れる時に、私は今日もお世話になりますという心で、そしたらカチッとおいさみがつきましたよ。ね。すべての事に御の字をつけて、お世話になりますというような頂き方が出けたら心の苛責というものよりか、むしろおかげの、御礼の申し上げられる心にかえられるのです。だから私が社長に申しました、最近の合楽はですね、まあとにかく、人間が人間らしゅう生きる生き方をね、説いとりますから、もうあちらも丁度年が七十になられます。でもまだ若々しゅうしとられます。けども、もうぼちぼち本当、信心なさらにゃあいかんですよと言うて、まあ話した事でございましたけども、その善い事もしてきた、悪い事もしてきたなら、もうプラス、マイナス何も無かごつなってくる。
四神様のおっしゃるお言葉の中にね、『善い事を言うならば十するよりも悪い事を一つするな』とおっしゃる。その悪い事と思いこんでおる事が実は悪い事ではない、むしろおいかげであると頂かせてもらえる。言うならば手立てがね、合楽理念に説かれる。
心は信心の定規じゃによって、今までよがんでおると思っておったのが、それは決してよがんでおるのじゃない、自分の横這いしとるごつ思うとるけれども、例えば蟹が真直ぐほうて行ったら、かえっておかしいでしょうもん。蟹はやっぱ横這いに這うのが当たり前なんです。私共は生きているんです。ね、生きている人間がです、我情がいけません、我欲はいけません。けれども情はよいのであり欲はよいのです。その情も欲までも悪い事のように思うておるその観念がこころの苛責。それがいうなら風浪を呼ぶような結果になるんだと言う事を思いますですね。
私はこの事は奥さんを通して、よくその社長にも話して頂きたい。昨日あなたが挨拶なさる時に、こういいなさった時に、親先生は風浪という事を頂かれた。ね、心に苛責する事はいらない事にまで、苛責の念がそういう事になって、それがならあの世までも続いたらどうするですか。ね。
先日私は、あるそれこそ人間関係に経済問題に病気の上に、まあ何と本当にまあ苦しい世の中であろうかと、こげなお取次ぎばっかり続くなり、こっちが方がもてんちいうごたる思いがちょっとしたんです。そしたら神様がおしらせにね、閻魔様の前にその人達が立っておる所を頂くんですよね。そして御理解に頂くのに、まあだ地獄行きとも、極楽行きとも決めとらんと閻魔様が言われる所を頂いたんです。閻魔さんの前に並んで、そこでどういう苦しい事であっても、どういう難儀な事であってもです、おかげで信心が出けますと、例えば心の中に、その方達の心が開けたらどういう事になりますか、極楽行きという事になるじゃないでしょうか。もう私ばっかりはどうしてこげなん難儀せんならんじゃろうか、苦しい苦しいと、そりゃあ地獄行きになる。そのまあ、行くわけです。ね。けれども心の閃めきというかね、一つの悟りというものがね、それこそ血の涙の出るようなと思うておったその血の涙が、有難涙にかわる時に極楽行きという事になる。まあだ地獄行きとも極楽行きとも決めとらん。なら、久富の社長の場合でもそうでしょうね。閻魔さんの前でね、私や善い事もしてきたばってん、悪いことの方が多いでしょうとこう言うのが、昨日もその幽霊のテレビの中に閻魔さんのあれが出てました。横にこんな大きな鏡、何とかの鏡ちゆうのがある。それに一生の事がこう写るというなんです。その閻魔さんの前に立って写る心が、善い事もして来ました、悪い事もしてきましたと、言うならばそのまま、地獄行きでしょうね、けれども、悪い事と思っておった事はむしろ、御礼を言わなければならない事であったと気付いて、自分の生涯の有難い事を御礼を申し上げる心になったら、極楽行きです。本当に、成程心次第、心一つですべてを創る、心一つで極楽行きが出けるのだという事。ね。
私は今日の御理解を頂いて、心は信心の定規と言われるのですから、合楽理念に基づいての信心生活は、もう御礼を申し上げる事ばっかり、その事に今日も又お世話になりますという心あらば、私は障る事もあたる事もない。そういうふうんじ思うですね。
どうぞ